新冷戦の展開は、米ソ両国経済の後退を加速させた。アメリカは国内産業の空洞化や国家財政・国際収支の「双子の赤字」に苦しみ、世界最大の債務国に転落した。
ソ連も深刻な経済危機におそわれ、1985年に登場したゴルバチョフの指導のもとに国内体制の立て直し(ペレストロイカ)がこころみられた。機能不全におちいった計画経済に市場原理の導入をはかり、情報公開(グラスノスチ)などを通じて政治・社会の自由化を進めた。
さらに、積極的な外交で対米関係の改善をはかり、1987年には、アメリカと中距離核戦力(INF)全廃条約を結び、翌年にはアフガニスタンからの撤兵をはじめ、ついに1989年12月両国首脳のマルタ会談の結果、「冷戦の終結」を米ソ共同で宣言した。
ソ連は東側陣営の結束を強制する政策を断念したので、1989年、東欧諸国は民衆デモの圧力のもと、つぎつぎに社会主義を放棄して陣営を離反した(東欧革命)。冷戦の象徴であった「ベルリンの壁」は打ち壊され、翌年には東西ドイツが統一を実現した。東アジアにおいても、ソ連と韓国、中国と韓国が国交を樹立し、東西対決の構造がくずれた。さらに、東欧諸国の動きはソ連に跳ね返り、構成諸国のなかに連邦からの自立の動きが高まった。1991年、党内保守派のクーデタの失敗のため、ソ連共産党は解散を余儀なくされ、さらに同年末にはソ連が解体した。東西対立の一方の極であるソ連の消滅で、冷戦の時代は完全に幕を閉じた。
しかし、冷戦の終結は平和の到来を意味しなかった。冷戦体制のなかでおさえ込まれていた多様で複雑な矛盾が、内戦・地域紛争の形で各地で噴出した。とくに旧ソ連や東欧諸国では、民族独立・国境紛争・国内少数民族の自立要求など、事態は紛糾の度を深めている。
ソ連解体後、アメリカが強い国際的指導力を発揮する状況が生まれ、クウェートに侵攻したイラクに対して1991年はじめ、米軍を主力とする「多国籍軍」が国連決議を背景に武力制裁を加えた(湾岸戦争)。続発する地域紛争に国連平和維持活動(PKO)で対応する動きが国際的に強まるなかで、1992年、日本も内紛の続くカンボジアに自衛隊の派遣をはじめた。
冷戦の終結後まもなく、冷戦の国内版である55年体制も崩壊した。1989年、昭和天皇がなくなり元号が平成と改められたころから、保守長期政権下での金権政治の実態が国民の前に明らかにされていった。
同年、竹下内閣はリクルート事件の疑惑のなかで退陣し、これを継いだ宇野宗佑内閣も参議院議員選挙での大敗北で短命に終わった。海部俊樹内閣は激動する国際関係、とりわけ湾岸戦争への対応に苦しみ、1991年成立した宮沢喜一内閣は翌年、PKO協力法(国際平和協力法)を成立させた。しかし、同内閣のもとで1992年に佐川急便事件、翌年にはゼネコン汚職事件が明るみに出て、国民の激しい非難をあびた。
こうしたなかで、政界でも選挙制度改革や政界再編成を目指す動きが強まった。
1993年に自由民主党が分裂して、7月の総選挙で自由民主党は過半数割れの大敗となった。宮沢内閣は退陣して、共産党を除く非自民8党派の連立政権が、日本新党の細川護煕を首相として誕生した。自由民主党長期政権は38年目に終わりを告げ、55年体制は崩壊した。
細川内閣は「政治改革」をとなえ、1994年小選挙区制を基本とする選挙制度改革を実現した。これをついだ羽田孜内閣が短命に終わると、従来対立関係にあった自社両党に新党さきがけを加えた連立で、社会党の村山富一委員長を首相とるす政権が成立し、社会党は安保・自衛隊問題や消費税などで従来の政策を大幅に変更した。
1996年、村山内閣は退陣し、同じ連立で自由民主党総裁の橋本龍太郎内閣が成立した。他方、1994年野党側は共産党を除いて合同し、新進党を結成して対抗している。